2020年11月4日水曜日

バルダッサーレ・ペルッツィ(Baldassarre Peruzzi, 1481年 - 1536年)

 最初にパースペクティブを舞台に適応した人物として伝えられる。

セルリオの師匠。


以下、wikipediaより

シエーナに生まれ、画家として修行を積んだが、1503年にローマに移住。ブラマンテのもとで建築家としての修行を積む。ラファエロ没後、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家として任命されるが、ローマ略奪のためローマから逃れ、シエーナに移る。その後ローマに戻るが、(ルネサンス建築として)その作風は盛期ルネサンスからマニエリスムへの移り変わりを示している。

2020年4月17日金曜日

第七編 室町時代

01_『日本劇場史の研究』

第七編 室町時代

第一章 日本と中国の演劇及び劇場様式の交流
第二章 室町時代の楽舞史概論
第三章 田楽能場建築史論
第四章 延年能舞台史論
第五章 猿楽能場建築史論
第六章 能舞台期限攷

2020年3月31日火曜日

橋掛りの秘密1

橋掛りはなぜ現在の形になったのか?

まずは、現在の能楽堂の形をみてみよう。


『図解:舞台美術の基礎知識』著/滝 善光 より


能楽では俳優(シテ・ワキなど)は必ずこの橋掛りより登退場する。
(お囃子、地謡などは上手の切り戸口より出入りする。)

私は常々なぜ、橋掛りは下手側から、しかも斜めになっているのかと疑問に思っていた。


橋掛りはいつ生まれたか?

室町初期には橋掛かりの記述はあるので恐らく、鎌倉後期にはあったのではないかと思われる。当初の橋掛りはどのようなものであったか?

『日本劇場史の研究』著/須田 敦夫より


これは能楽ではないのだが、当時流行していた田楽の舞台である。競演の要素があり、東西に二つの橋掛りあったようだ。

能楽の元となる猿楽の舞台
勧進猿楽。
これは寛正五(1464年)糺河原勧進能場の推定復元図である。

賀茂川(左)と高野川(右)の合流するところに「糺河原」はあったとされる



『日本劇場史の研究』著/須田 敦夫より

これは橋掛りが奥に一本あるだけである。
当時の猿楽は上記のように円形に客席を組んでいた。
その為、必然的に舞台と楽屋をつなぐ橋掛りは舞台奥になったのだとされる。

室町時代中期までは(1460年頃まで)は橋掛りの定式はなかったようである。
舞台と客席をつなぐことさえできればよかったようだ。

それがなぜ、東側に着くようになったのか?
このヒントは当時の客席のならびにあるようだ。

以下の図は、桟敷席の配置である。



正面が一番格式が高いのは言うまでもない。
正面中央が神桟敷、東側が将軍義政、西側が内室(妻)の日野富子である。
※中央の神桟敷も非常に面白いのだがここでは置いておく。

日本には古来より中央の次に東方を尊重する慣習がある。
その為、東側の客席に重きが置かれる。
東側に将軍が鎮座しているのをみればわかるだろう。将軍義政から側近のものたちへとつながるのに対し、西側は内室関係の人々である。

そうなると自然と演ずる方も東側へと意識が向く。


それに呼応するかのように、ワキ座地謡座は西側に置かれ、正面から東側へと向かい演ずるようになる。


そして、現在の東側の位置に橋掛りが来た。
というのが一つの説。






2020年2月3日月曜日

1 : 古代ギリシアとローマ劇場のシーニックデザイン

1 : 古代ギリシアとローマ劇場のシーニックデザイン

古代ギリシアのシーニックデザイン
古代遠近法
ギリシアのシーニックペイント
場所の設定とその表現
スケネの構造と疑問
ギリシアの舞台仕掛け
ヘレニズム劇場の時代_1
ヘレニズム劇場の時代_2
ペリアクトイ_1
ペリアクトイ_2

2020年1月29日水曜日

02_中世のシーニックデザイン

■中世のシーニックデザイン

■舞台美術的視点のパートナーとしての教会建築

■野外セット

■吊り物とパフォーマー

■中世のプロダクション

■ギルド(職人組合)

■ワゴンと固定されたプラットフォーム(舞台)での上演(ステージング)

■受難劇

■中世のペインター

■中世スペインの舞台