Joseph Furttenbach the Elder (30 December 1591 – 17 January 1667) was a German architect, mathematician, engineer and diarist.
Joseph Furttenbach was born in Leutkirch, Germany. From 1607/08 to 1620 he stayed in Italy (especially in Milan, Genoa and Florence). There he did an apprenticeship as a merchant under the supervision of his uncles. Moreover, he studied engineering, military architecture and grew an interest in theatre and stage design while abroad. Through his travels he made detailed accounts of buildings that interested him as well as festivals, processions and dramatic performances. In three of his books he wrote expositions on scenery and lighting for the theatre. He is only second to Nicola Sabbatini as one of the most extensive accounts of backstage practices during the Renaissance.
After his stay in Italy, he moved back to Germany and settled in Ulm. There, he had a successful career as an architect and universal engineer. He designs included a hospital, a waterworks system, a schoolhouse, a theatre, and homes. He was eventually named city architect of Ulm, wrote many books, and served on the city council. His cabinet of curiosities was one of the most famous in Germany. A pious Lutheran, Furttenbach was at the same time an important cultural broker between Baroque Italy and Southern Germany.
2019年7月19日金曜日
ジャコモ・トレッリ(Giacomo Torelli 1608 -1678)
ジャコモ・トレッリはイタリアの舞台美術家、技術者、建築家である。
彼の仕事は主に舞台デザインであり、特に壮大な場面変化を作り上げる彼のデザインと機構は多くの版画に刻まれ、それゆえに17世紀の舞台美術として最も完全な記録として残っている。
トレッリはイタリアのファーノで生まれた、彼はそこで最初のキャリアとして素人劇団と共に仕事をしていたようだ。

彼はさらに近くのペーザロやウルビノでも舞台美術のキャリアを積んでいたようだ。
彼の最初の仕事の記録は1641年の1月ヴェネチアのTeatro Novissimoのオープニングに残っている。そこで彼はFrancesco Sacrati作のオペラ『La finta pazza』に舞台美術と舞台機構で関わった。
トレッリは同じ劇場で行われた Sacratiの他の二つの作品にも関わっている。
1642年に『Bellerofonte』、1643年の1月に『Venere gelosa』。
さらに、1644年にFrancesco Cavalliの『Deidamia』これも同じくTeatro Novissimo。
トレッリのベネチアでの最後の仕事はSacrati『L'Ulisse errante』で1644年に
the Teatro Santi Giovanni e Paoloで行われた。



彼の仕事は主に舞台デザインであり、特に壮大な場面変化を作り上げる彼のデザインと機構は多くの版画に刻まれ、それゆえに17世紀の舞台美術として最も完全な記録として残っている。
トレッリはイタリアのファーノで生まれた、彼はそこで最初のキャリアとして素人劇団と共に仕事をしていたようだ。

彼はさらに近くのペーザロやウルビノでも舞台美術のキャリアを積んでいたようだ。
彼の最初の仕事の記録は1641年の1月ヴェネチアのTeatro Novissimoのオープニングに残っている。そこで彼はFrancesco Sacrati作のオペラ『La finta pazza』に舞台美術と舞台機構で関わった。
トレッリは同じ劇場で行われた Sacratiの他の二つの作品にも関わっている。
1642年に『Bellerofonte』、1643年の1月に『Venere gelosa』。
さらに、1644年にFrancesco Cavalliの『Deidamia』これも同じくTeatro Novissimo。
トレッリのベネチアでの最後の仕事はSacrati『L'Ulisse errante』で1644年に
the Teatro Santi Giovanni e Paoloで行われた。



2019年6月17日月曜日
2019年5月30日木曜日
Teatro Farnese
ファルネーゼ劇場は、パルマ・ピアチェンツァ公国のファルネーゼ家ラヌッチョ公爵によって造られ、1618年から1619年にかけてジョバン・バッティスタ・アレオッティが建設した。
1944年、第二次世界大戦の空襲によって損傷し1956年から60年にかけ再建された。
すべて木で造られたとても珍しい木造のルネサンス様式の劇場。
舞台と観客を区切った構造から客席からみて縁取られたように見える額縁型劇場舞台としても知られ、プロセニアム、劇場の始まりとも言われている。
2019年5月29日水曜日
2019年3月20日水曜日
2019年3月2日土曜日
メモ「時の権力者や財界人が能を好むのはなぜ?」
otoCotoより転記
https://otocoto.jp/interview/hoshokazufusa/
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宝生流宗家、宝生和英さんが明晰に回答!「時の権力者や財界人が能を好むのはなぜ?」
2/22(金) 12:40配信
能は、歌舞伎、文楽などと同様、長い歴史と高い技術の蓄積に支えられた日本を代表する古典芸能だ。が、歌舞伎や文楽と同じようなものだとタカをくくると、痛い目に遭う。
歌舞伎や文楽は、現代人には難解に感じられるものが多い一方で、まんが『ワンピース』をゆずのヒット曲を使って舞台化してしまうほどの柔軟性と大衆性を持ち合わせており、実はかなり間口が広い。これに引き換え能楽は、演能の前に解説が付き、ストーリーや見どころを説明するサービスが付くことも多く親切そうでいて、実際に上演が始まると、もう取り付く島がないほどに、何も理解できずに終わってしまうことが珍しくない。
650年の歴史を持ち、理想的な芸術論を展開。つねに時の権力者や財界人に愛される一方、その敷居を決して低めようとはしない能楽に、いったいどうアプローチすればいいのか。能楽界の次代を担うシテ方宝生流宗家の宝生和英さんが、目から鱗の実践的アドバイスをしてくれた。
■「能はエンタテインメントではありません」
「まず第一前提として、能楽はいわゆる”エンタテインメント”ではないということを、ご理解いただきたいと思います。 もちろん、真のエンタテインメントはそうではないのですが、ここで言う現代のエンタテインメントの定義は、”心を揺るがすもの”。つまり”驚き”や”感動”といった大きな感情で日常を上書きし、一過性の印象を植え付けるもののことを指します。その意味では、能楽はエンタテインメントの真逆であり、Japanese Opera とか Japanese Musical とする形容は間違っています。
私は音楽家ブライアン・イーノが提唱している”アンビエント”という言葉をよく使うんですが、能はアンビエント・カルチャーに分類されると思っています。アンビエントには、精神の動きを一定におさめるような効能があります。これは美術館や神社仏閣に行く感覚に近いもので、たとえば美術館で素晴らしい絵を見ても、拍手はしませんよね。みんなで一緒に歓声を上げることもなく、見る人それぞれが、自分の楽しみ方を見つける。つまりパーソナルな体験であるところに、大きな特色があります。
教会のミサの役割にも、よく似ていると思います。日曜日にミサに行って、家族のことや仕事のことを、心を落ち着けて考える。これは信仰というよりも、生活を豊かにする工夫のひとつですよね。能を観るのも、同じようなことなんです」
創り手の解釈やテーマを押しつけず、リスナーの心の解放ややすらぎを目指すアンビエント・ミュージックと、能は同じカテゴリーに属するのだと、能楽界の若きリーダーは説く。
なるほど、能の演目は多種多様だけれど、その内容をわかりやすく伝える演出はしないし、烈しい心の葛藤を抱えているはずの主人公も、その情動は能面と装束の奥に秘め、決して明らかにしない。そうすることで、鑑賞者の心が簡単に乱れ動いてしまうことを避け、プレーンかつ穏やかな状態で、さまざまな問いを見つけられる余地をつくる。こうして観る者を精神的に深い次元へと誘うのが、能楽の使命であり価値である、というわけだ。
14世紀に成立して以来、近世以前は為政者に、近代以降は財界人等に愛され庇護されてきたのも、彼らが能のアンビエント効果をうまく使っていた証しだという。
■信長、秀吉、家康と能の関係
「能楽は、実はイノベーションの達人なんです。たとえば戦国時代から江戸時代。能楽自体は変わらないのに、三人の為政者の能楽の使い方は、それぞれ異なっていました。
織田信長は、戦国真っただ中にあって死というものがとても身近にあった人です。 死に対する恐怖を持ったまま戦場に出ると、戦死する確率が高まるので、その恐怖を克服するためのマインドフルネスとして、能楽を使いました。
豊臣秀吉の時代は、すでに大きな戦争は無くなっていたので、組み立て式の能舞台を造るなど、秀吉は自分の力を誇示するため、プロパガンダとして能楽を使いました。
そして徳川家康は、全国を平定した後、各地のブランディングの一環として、能楽を推奨しました。おかげで加賀や佐渡など、その土地ごとに特色ある能楽が発展することになりました。こうして100年もしない間に、能楽の役割は次々に変わっていったのです」
今の時代にこそ能が必要とされる理由とは?
つまり、能をどう使うかは社会情勢次第であり、その時代に生きる人たちが、ふさわしい使い方を見つければいいということ。
「現代はどんな時代かというと、かなりいびつだと思います。我々の世代はちょっとバブルを経験しているので、イケイケの狂乱時代の尻尾を見ているし、就職氷河期も知っていて、現在は世界的な経済不況のただ中にいる。ということから、自分の感覚としては平和なんだけど、実際の社会は荒れているという状況で、その結果、エンターテインメントによって、一時的に嫌なことを忘れようとする傾向が強いと思います。
また、「○○ロス」という言葉が流行っていますが、これは何かに依存して自分で考えることを止める状態なので、いちばん危険です。「○○ロス」=他者への依存をなくすには、今の自分に必要なものは何かを、自分で考えることです。そのための環境をつくって差し上げるのが、我々能楽の役割ではないかと思っています」
能を暮らしに取り入れ、政治やビジネスに活用していた先人である武将や財界人に共通するのは、受け身でいることを拒み、能動的におもしろさを見つける姿勢だ。
「彼らは受け身でいることや、押しつけられる文化が嫌いでした。たとえば歌舞伎で町人の粋を表現しようとする場合、『これが町人のカッコよさ』というスタイルを提示しますが、彼らは『それはあなたの意見でしょう』と反発し、とらえ方が自分の自由である能に、おもしろさを見出したわけです。
これは言い換えれば、受け身になった時点で、能はつらく感じるようになるということです。ぜひ好奇心を持って能を観て、積極的に“なぜだろう”、“どういうことだろう”をたくさん生み出していただきたいと思います」
■渋谷に若手能楽師が集う
今回の「渋谷能」は、能楽界の各流派の若手が、一夜ごとにテーマに沿った一番の能を披露する全7回のシリーズ。
宝生流は、第一夜に和英さんがシリーズの開幕を祝う『翁』という儀式的な演目で登場した後、7月26日の第四夜に「不条理」をテーマに『藤戸』(シテ方:高橋憲正)を上演する。戦場において理不尽な理由で武将に息子を殺された母親と、息子自身の霊が、武将に対して恨みをぶつけるというストーリーだ。
「自分の子供を殺された母親と、何の罪も無いのに殺された息子自身。この虐げられた弱者たちの心の内を想像することは、比較的容易ですよね。では、殺した側の武将の気持ちを想像することはできますか?と問う話です。
武将は、息子に情報を提供してもらったのに、他にその情報を漏らされることを恐れて、彼を殺してしまいます。ここで彼を殺さなければ、自分の配下の何百名という兵の命が危険にさらされると思ったのでしょう。
では1人の命と100人の命は、どちらが大切なのか。こういう話、よくマイケル・サンデルが問いかけていますよね。もちろん絶対的な答えなど無いでしょう。でも僕は、それについて考えることが素晴らしいと思うんです。あらゆるケースを予測する力が、私たちには必要ではありませんか。少なくともマイケル・サンデルを好きな人は、『藤戸』をおもしろいと感じてくれると思います(笑)」
まずは、喧噪を離れ、ひとり心を落ち着かせる場として、能楽堂に足を踏み入れてみる。その好奇心と行動力を持つことから、始めてみたい。
取材・文/伊達なつめ
https://otocoto.jp/interview/hoshokazufusa/
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宝生流宗家、宝生和英さんが明晰に回答!「時の権力者や財界人が能を好むのはなぜ?」
2/22(金) 12:40配信
能は、歌舞伎、文楽などと同様、長い歴史と高い技術の蓄積に支えられた日本を代表する古典芸能だ。が、歌舞伎や文楽と同じようなものだとタカをくくると、痛い目に遭う。
歌舞伎や文楽は、現代人には難解に感じられるものが多い一方で、まんが『ワンピース』をゆずのヒット曲を使って舞台化してしまうほどの柔軟性と大衆性を持ち合わせており、実はかなり間口が広い。これに引き換え能楽は、演能の前に解説が付き、ストーリーや見どころを説明するサービスが付くことも多く親切そうでいて、実際に上演が始まると、もう取り付く島がないほどに、何も理解できずに終わってしまうことが珍しくない。
650年の歴史を持ち、理想的な芸術論を展開。つねに時の権力者や財界人に愛される一方、その敷居を決して低めようとはしない能楽に、いったいどうアプローチすればいいのか。能楽界の次代を担うシテ方宝生流宗家の宝生和英さんが、目から鱗の実践的アドバイスをしてくれた。
■「能はエンタテインメントではありません」
「まず第一前提として、能楽はいわゆる”エンタテインメント”ではないということを、ご理解いただきたいと思います。 もちろん、真のエンタテインメントはそうではないのですが、ここで言う現代のエンタテインメントの定義は、”心を揺るがすもの”。つまり”驚き”や”感動”といった大きな感情で日常を上書きし、一過性の印象を植え付けるもののことを指します。その意味では、能楽はエンタテインメントの真逆であり、Japanese Opera とか Japanese Musical とする形容は間違っています。
私は音楽家ブライアン・イーノが提唱している”アンビエント”という言葉をよく使うんですが、能はアンビエント・カルチャーに分類されると思っています。アンビエントには、精神の動きを一定におさめるような効能があります。これは美術館や神社仏閣に行く感覚に近いもので、たとえば美術館で素晴らしい絵を見ても、拍手はしませんよね。みんなで一緒に歓声を上げることもなく、見る人それぞれが、自分の楽しみ方を見つける。つまりパーソナルな体験であるところに、大きな特色があります。
教会のミサの役割にも、よく似ていると思います。日曜日にミサに行って、家族のことや仕事のことを、心を落ち着けて考える。これは信仰というよりも、生活を豊かにする工夫のひとつですよね。能を観るのも、同じようなことなんです」
創り手の解釈やテーマを押しつけず、リスナーの心の解放ややすらぎを目指すアンビエント・ミュージックと、能は同じカテゴリーに属するのだと、能楽界の若きリーダーは説く。
なるほど、能の演目は多種多様だけれど、その内容をわかりやすく伝える演出はしないし、烈しい心の葛藤を抱えているはずの主人公も、その情動は能面と装束の奥に秘め、決して明らかにしない。そうすることで、鑑賞者の心が簡単に乱れ動いてしまうことを避け、プレーンかつ穏やかな状態で、さまざまな問いを見つけられる余地をつくる。こうして観る者を精神的に深い次元へと誘うのが、能楽の使命であり価値である、というわけだ。
14世紀に成立して以来、近世以前は為政者に、近代以降は財界人等に愛され庇護されてきたのも、彼らが能のアンビエント効果をうまく使っていた証しだという。
■信長、秀吉、家康と能の関係
「能楽は、実はイノベーションの達人なんです。たとえば戦国時代から江戸時代。能楽自体は変わらないのに、三人の為政者の能楽の使い方は、それぞれ異なっていました。
織田信長は、戦国真っただ中にあって死というものがとても身近にあった人です。 死に対する恐怖を持ったまま戦場に出ると、戦死する確率が高まるので、その恐怖を克服するためのマインドフルネスとして、能楽を使いました。
豊臣秀吉の時代は、すでに大きな戦争は無くなっていたので、組み立て式の能舞台を造るなど、秀吉は自分の力を誇示するため、プロパガンダとして能楽を使いました。
そして徳川家康は、全国を平定した後、各地のブランディングの一環として、能楽を推奨しました。おかげで加賀や佐渡など、その土地ごとに特色ある能楽が発展することになりました。こうして100年もしない間に、能楽の役割は次々に変わっていったのです」
今の時代にこそ能が必要とされる理由とは?
つまり、能をどう使うかは社会情勢次第であり、その時代に生きる人たちが、ふさわしい使い方を見つければいいということ。
「現代はどんな時代かというと、かなりいびつだと思います。我々の世代はちょっとバブルを経験しているので、イケイケの狂乱時代の尻尾を見ているし、就職氷河期も知っていて、現在は世界的な経済不況のただ中にいる。ということから、自分の感覚としては平和なんだけど、実際の社会は荒れているという状況で、その結果、エンターテインメントによって、一時的に嫌なことを忘れようとする傾向が強いと思います。
また、「○○ロス」という言葉が流行っていますが、これは何かに依存して自分で考えることを止める状態なので、いちばん危険です。「○○ロス」=他者への依存をなくすには、今の自分に必要なものは何かを、自分で考えることです。そのための環境をつくって差し上げるのが、我々能楽の役割ではないかと思っています」
能を暮らしに取り入れ、政治やビジネスに活用していた先人である武将や財界人に共通するのは、受け身でいることを拒み、能動的におもしろさを見つける姿勢だ。
「彼らは受け身でいることや、押しつけられる文化が嫌いでした。たとえば歌舞伎で町人の粋を表現しようとする場合、『これが町人のカッコよさ』というスタイルを提示しますが、彼らは『それはあなたの意見でしょう』と反発し、とらえ方が自分の自由である能に、おもしろさを見出したわけです。
これは言い換えれば、受け身になった時点で、能はつらく感じるようになるということです。ぜひ好奇心を持って能を観て、積極的に“なぜだろう”、“どういうことだろう”をたくさん生み出していただきたいと思います」
■渋谷に若手能楽師が集う
今回の「渋谷能」は、能楽界の各流派の若手が、一夜ごとにテーマに沿った一番の能を披露する全7回のシリーズ。
宝生流は、第一夜に和英さんがシリーズの開幕を祝う『翁』という儀式的な演目で登場した後、7月26日の第四夜に「不条理」をテーマに『藤戸』(シテ方:高橋憲正)を上演する。戦場において理不尽な理由で武将に息子を殺された母親と、息子自身の霊が、武将に対して恨みをぶつけるというストーリーだ。
「自分の子供を殺された母親と、何の罪も無いのに殺された息子自身。この虐げられた弱者たちの心の内を想像することは、比較的容易ですよね。では、殺した側の武将の気持ちを想像することはできますか?と問う話です。
武将は、息子に情報を提供してもらったのに、他にその情報を漏らされることを恐れて、彼を殺してしまいます。ここで彼を殺さなければ、自分の配下の何百名という兵の命が危険にさらされると思ったのでしょう。
では1人の命と100人の命は、どちらが大切なのか。こういう話、よくマイケル・サンデルが問いかけていますよね。もちろん絶対的な答えなど無いでしょう。でも僕は、それについて考えることが素晴らしいと思うんです。あらゆるケースを予測する力が、私たちには必要ではありませんか。少なくともマイケル・サンデルを好きな人は、『藤戸』をおもしろいと感じてくれると思います(笑)」
まずは、喧噪を離れ、ひとり心を落ち着かせる場として、能楽堂に足を踏み入れてみる。その好奇心と行動力を持つことから、始めてみたい。
取材・文/伊達なつめ
2018年9月7日金曜日
ジュリオ・パリッジ(Giulio Parigi)
ジュリオ・パリッジ(Giulio Parigi、1571-1635)
イタリアの建築家。舞台美術家・土木技師・画家
メディチ家お抱えの建築家の主要メンバーだった。
彼の父(Alfonso Parigi the Elder)もまたトスカーナ大公の為にフィレンツェで働く建築だった。
彼は革新的な舞台美術家としても注目を浴びる。
建築家として公共建築にロッジオ※を用いた最初の建築家であると言われている。
※ロッジア(loggia)は、イタリアで生まれた建築意匠の一種を指す言葉で、ファサードに一方の側が外に開かれた廊下を配し、一定間隔の柱で支持するか、単に壁に開口部を設けた形状のものである。開廊、涼み廊下とも。
イタリアの建築家。舞台美術家・土木技師・画家
メディチ家お抱えの建築家の主要メンバーだった。
彼の父(Alfonso Parigi the Elder)もまたトスカーナ大公の為にフィレンツェで働く建築だった。
彼は革新的な舞台美術家としても注目を浴びる。
建築家として公共建築にロッジオ※を用いた最初の建築家であると言われている。
※ロッジア(loggia)は、イタリアで生まれた建築意匠の一種を指す言葉で、ファサードに一方の側が外に開かれた廊下を配し、一定間隔の柱で支持するか、単に壁に開口部を設けた形状のものである。開廊、涼み廊下とも。
2018年3月8日木曜日
<コラム>『ルネサンスとは何であるか?』~聖フランチェスコから考える
中世の舞台芸術を知るにもやはりルネサンスを理解しなくてはいけない。
ルネサンスとは何であるか?
一般的には14世紀に始まった動きで「古典への復興」と訳される事が多いように思う。
でもその説明だけではやはり不十分であると思う。
でもその説明だけではやはり不十分であると思う。
ポイントとなるのは古代ローマから約1000年もの間、なぜこのような芸術運動が生まれ出なかったかと言う事だ。
この大きな理由の一つがキリスト教会の権力集中とそれによる人々への圧迫だ。
これによりあらゆる芸術運動は押さえられていたのだ。
逆を言えば、ルネサンスとはこのキリスト教会の圧力から解き放たれた時代と言ってもよいかもしれない。
これによりあらゆる芸術運動は押さえられていたのだ。
逆を言えば、ルネサンスとはこのキリスト教会の圧力から解き放たれた時代と言ってもよいかもしれない。
『ルネサンスとは何であったか?』(塩野七生/著)の中で塩野氏はルネサンスの始まりとなるキーパーソンの一人に聖フランチェスコ(1181-1228)をあげている。いち宗教家でしかないフランチェスコがなぜルネサンスの始まりの人となるのか?
それは彼が欲と権力に溺れてしまったキリスト教会に異を感じ、
本来あるべきキリスト教の教えを説き、
キリスト教会の権力と圧迫を解く一つのきっかけを作ったからだ。
本来あるべきキリスト教の教えを説き、
キリスト教会の権力と圧迫を解く一つのきっかけを作ったからだ。
キリスト教とは愛の教えであり、そして、清く貧しくあるべきだと。
当時のキリスト教会はその権力を守るが為にいろいろな制約や罰則で人々を苦しめていた。当時の人々にとってキリスト教とはそんな権力の象徴だったのである。
フランチェスコの清貧思想は当時のキリスト教会とは正反対の動きであった。
普通に考えればキリスト教会によって簡単につぶされそうなのに当時の法王であったイノセント三世はこの思想を認めそして祝福までしている。
普通に考えればキリスト教会によって簡単につぶされそうなのに当時の法王であったイノセント三世はこの思想を認めそして祝福までしている。
この動きも非常に面白い。
でもこれは本心というよりも民衆からの指示を受けていたフランチェスコの思想をつぶすよりもうまく活かしておいた方が自分たちの為にもでもなるとでも考えたのであろうか?
(この辺りはキリスト教会の力を最大にしたと言われるイノセント三世の懐の深さを感じる。)
まあ細かい理由はどうであれ、これはフランチェスコにとってはとても幸運であった。
法王にも認められた事によってこの清貧思想と正しい聖書の教えを人々に広める為にフランチェスコは精力的に動いた。
教会の中の宗教画もその活動の一つだ。
しかし、当時流行っていたモザイク画は豪華絢爛でどうしても高くなってしまう。
そして、フランチェスコの清貧思想とも合わない。
そこで考え出されたのが半乾きの漆喰の上に素早く絵を描くフレスコ画の技法であった。
これであれば安価で早く、しかも簡素でありながら大胆でわかりやすい作品を描く事ができる。まさにフランチェスコの清貧思想と合っていたわけだ。
そんなフランチェスコの動きがあったからこそ、ジョットが生まれ、その後に続くルネサンス絵画が生まれたと言っても良いかもしれない。
(by/suzuken 2018_0308)
2018年1月9日火曜日
ヴァレンシエンヌでの受難劇
The Passion play at Valciennes,France,in 1547, by Hubert
Cailleau from/"making the scene"p42 fig2.17
1547年にヒューバート・チャイユーによって描かれたヴァレンシエンヌでの受難劇
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受難劇とは十字架にかかるイエスの受難を描いた中世演劇の一形態である。聖史劇の一種で復活劇から発展し、見せ物としての要素も持つ。
モチーフにマリアの嘆き、刑場への道、サイドの晩餐などの場面を加えている。13世紀〜16世紀にかけてヨーロッパの各地で上演された。
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チャイユーの絵がどこまで信憑性があるかわからないが、分析すると以下のようなレイアウトになる。
マンションの配置は日ごとに変えられたようである。
この受難劇を上演する為に最低でも25日間必要されたと言われている。
1547年にヒューバート・チャイユーによって描かれたヴァレンシエンヌでの受難劇
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受難劇とは十字架にかかるイエスの受難を描いた中世演劇の一形態である。聖史劇の一種で復活劇から発展し、見せ物としての要素も持つ。
モチーフにマリアの嘆き、刑場への道、サイドの晩餐などの場面を加えている。13世紀〜16世紀にかけてヨーロッパの各地で上演された。
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チャイユーの絵がどこまで信憑性があるかわからないが、分析すると以下のようなレイアウトになる。
マンションの配置は日ごとに変えられたようである。
この受難劇を上演する為に最低でも25日間必要されたと言われている。
2017年4月14日金曜日
『舞台美術アカデミアブログスタート』~舞台美術アカデミアが始まるまで
by suzuken
舞台美術アカデミアと言う勉強会を月2回くらいのペースでやっている。
この前身はPSLABOと言う所に遡る。
もうかれこれ10年以上前になるであろうか?
当初はperfuming space labo(PSLABO)という名称でパフォーミング空間を研究しようという事で始めた。
とは言え基本は舞台美術の歴史を勉強する事であり、今やっている事とそんなに大差はない。
舞台美術を勉強するのに日本にはそれを研究する資料があまりにも少ない。
そんな中、我々が最初に勉強会のテーマにしたのが伊藤熹朔氏の『舞台装置の研究』であった。
この本は大変よくまとまっていた。出版が1941年だから今からもう70年以上も前になる。それ以降このような本が出版されないのはとても悲しい。
日本の舞台美術家が出す本は自分の作品を並べる作品集的な物がほとんどでその分野を論理的に体系する物はない。
伊藤熹朔と同世代で、もう一人吉田謙吉という舞台美術家がいる。
吉田氏も大変たくさんの著作を残していて、彼の著作もいろいろ得る所があると思っている。吉田氏の文献を探るのも今後の課題だ。
伊藤熹朔氏の本を読み終え、次の課題を決めようと思った時に一人の人物に当たる。
今舞台美術に関わっている人の多くはこの人を知らない。
しかし、近代の舞台芸術を探って行くと彼の存在を避けて通る事はできない。
建築を学んでいる人が、ル・コルビジェを当たり前のように知っているように
舞台芸術を学ぶ人もジョセフ・スボボダを知らないといけないのではないか・・・
そんな思いが我々の中に募った。
そんな流れで次のテーマを『スボボダ』にした。
彼の伝記を英語版ではあったが入手する事ができ、それを皆で翻訳して勉強をしていた。
スボボダ勉強会も1年くらいは続いたが、結局翻訳に疲れてしまったのと私個人のオランダ留学が決まってそのまま頓挫してしまった。
これが2007年の話だ。
オランダ滞在中、そこで舞台美術の歴史を学んでいる場に同席もしたがオランダ語の授業は私には全く理解できず、そして、高校~大学と全く演劇に関わりのなかった私は、自分の基礎教養として舞台美術の知識がない事にひどく劣等感を感じてしまった。
その劣等感は未だに強くあり、何とかしてこの思いを払拭したいと言う気持ちが続いている。
この本のタイトルがいい!
『making the scene 』
そう、我々の仕事はシーンを作っている仕事なんだ。
これをヨーロッパではセノグラフィーと言う。
これをヨーロッパではセノグラフィーと言う。
これまでに作られたシーンの歴史を辿るという作業はこの上もなく面白いと感じた。
これを始めたのが2013年。
既に4年目を迎え、やっとブログもスタート。
何とも遅い歩みであるが、少しずつ積み重ねて行きたい。
何とも遅い歩みであるが、少しずつ積み重ねて行きたい。
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