2015年12月16日水曜日

ギリシア悲劇の場面設定

現存する33のギリシア悲劇の場面設定は以下のようであった。
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22→宮殿、神殿、墓の前
4→テント、洞窟、小屋の前
4→オープンスペース、
1→山の頂上、
2→林、聖地、もしくは宗教的な場
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言い換えれば宮殿、神殿などの建物で背景を作れば、
2/3の戯曲には当てはまるという事である。

スケネのように定式化された物を想定するならば場面変化はなかったと
思われる。
舞台の変化は場所を特定するのにとても役立つがスケネは変化しなかったのではないか?
壷絵に見られるような選択可能な装置がその解決であったのではないか?

でも、実際の所それを決定づける証拠がない。


ディオニソス劇場のオルケストラは約66フィート(約20m)であったとされる。
観客席には14,000人が収容できた。

小さなシーンハウスはその大きな空間の中では滑稽な小ささに見えた。
ウィトルウィウスによれば、スケネの長さはオルケストラの直径の約2倍であったとの事である。

ディオニソス劇場が必ずしもこの条件にあっていなかったかもしれないが、例えスケネがオルケストラの直径と同じであってもそれは素晴らしい建物であったはずだ。

このような劇場で演劇が行われていたとすれば、一体どのようにして客を満足させるような変化を見せたであろうか?

全ての構造物が変化したのであろうか?
それとも数枚のパネルが変化したのであろうか?
それとも両サイドのデハケ口のパネルから何かが出て来たのであろうか?

ほとんどの客は20メートル以上離れた場所からそれらを見なくてはならなかった。
20メートル離れた所から一体どんなディティール見せる事ができたのであろうか?

俳優が付けていたマスクはその登場人物のエッセンスを抽出したデザインになっていた。
舞台のシーナリーもマスクと同じようにエッセンスを抽出した物であったのかもしれない。

2015年12月15日火曜日

古代ギリシア遠近法

by suzuken

古代ギリシアの遠近法はルネッサンスの一点透視図法とは違っていたようだ。
①が古代に使われていたと言う遠近法。
②がルネッサンスの遠近法。
我々がよく知っている遠近法(一点透視図法)だ。

From A.M.G. Little 「Perspectives and Scene Painting」


ルネッサンスの遠近法が平面の画面に映し出すのに対して、古代ギリシアの遠近法(※古代遠近法と略す)は曲面の画面に映し出している。

一点透視図法の欠点は、基点から離れれば離れるほど、その形に歪みが出てしまう事だ。
その点、この古代遠近法はその歪みがうまく修正される方法であると思う。


この方法が古代ギリシアの劇場で使われていたのではないだろうか?

確かにこの古代遠近法であれば、ビューポイントから多少はずれてもそんなに歪みは多くないだろう。(これは実際に実験してみる必要がある。)


ボスコレアーレの壁画もカーブを使う遠近法ではないが、一点透視図法のように一つの消失点ではなく、上下の垂直方向に多数の消失点を使い描かれている。

なるほど、古代の人は人間の目にとって自然に見える方法を知っていたのだと思う。

ボスコレアーレのフレスコ画


From A.M.G. Little 「Perspectives and Scene Painting」p487-495



2015年12月1日火曜日

古代ギリシアのシーニックデザイン

by suzuken

西洋演劇の歴史は通常紀元前6世紀頃にアテネで始まると言われている。
舞台美術(セノグラフィー)の歴史もそこが出発点であろう。
ディオニソスは初期の劇場としてもそのフェスティバルとしてももっとも有名な劇場の一つである。

考古学的には初期の劇場には物理的構造物はなかったとされている。
オルケストラ(踊る場所)とその外側に観客が集まるテアトロンがあっただけであった。

『Theatre and Playhouse』 著/Richard 
Leacroft and Helen Leafcroftより(※日本語加筆)

その当時の劇場には観客を遮るような物理的構造物は一切なかった。
劇場から海や山や空を見る事ができた。ギリシアにおいて世界とは神・人間・自然が関連しあって作られる物だと信じられていた。そこでは人間ドラマだけではなく、宇宙的な広がりも感じていたはずだ。
『Antike Griechische Theaterbanten』著/Ernstr Robert Fiechter

背景は芝居の演出には使われなかったし、スケネは俳優がマスクや衣裳を変える為の小屋程度の物であり、決して大きいものではなかった。


スケネの材料は未だに明らかではないが、恐らく木製で演劇祭の度に作り替えられていたのだとされている。紀元前4世紀後半頃になると石での常設の劇場が現れるようになる。

劇場の形はパーフォーマンスの形態と関連している。
劇作家アイスキュロス(525?-456 BCE)は、
第二の俳優を導入し、これによりコロス(12から50人ほどいた)の重要性を減らした。
オルケストラのサイズはコロスの数と関連する。
スケネがより精巧で多く使われるようになるとオルケストラの重要性が低くなり、小さくなっていった。

紀元前458年まではスケネは演出的な効果を果たしていなかった。
それがアイスキュロスのアガメムノンの冒頭では初めて演出的に使用される。

アガメムノーン (岩波文庫) 文庫 アイスキュロス (著), Aeschylus (原著), 久保 正彰 (翻訳)


恐らくこの見張りの男はスケネの上で演技した事だろう。